別れの曲 (5) 冷静と慟哭のあいだ

やっと日付が変わったー。でも書くって作業は有益だね。自分に関する謎が、なんとなく少しずつ解けてきた気がするよ。この調子で全部書いたら、ちゃんと判るかな。

もくじ

ごあんない(毎回掲載しますよ)

このシリーズは、07年3月に mixi 生中継していた、祖母の葬儀に伴う北九州・八幡滞在の模様を、みくし日記の文と携帯写真を元に大幅加筆再構成したものです。

ひとしきり語り終わった父と、それを静かに聞いていた母は、ほどなく眠りについた。わたしは TV にイヤホンを挿し、ちょうど日曜日だったので堂本を観て、それから線香を1本たてて布団にもぐった。
通夜、という名称の意味を初めて知ったのはつい数時間前のことだった。葬儀までの間、夜じゅう線香とろうそくの火が絶えないように遺族が寝ずの番をするから、そういうらしいのである。実際、前日は両親とも交替でちょこちょこと線香を守っていたそうだ。
では、今日は何故皆して寝るモードなのか。
それはその日になって初めて斎場の人が教えてくれた、便利グッズのおかげであった。


巻き線香なるものの存在。そして長く持つろうそく。
いずれも、8時間だか12時間だか、とにかく夜寝る前に点火すれば朝まで持つというのである。つまり、何かと疲れているであろう遺族でもゆっくり寝ることができる、素晴らしいアイテム。
それを昨日教えてほしかった、と、話を聴いた母は苦笑した。

しかし、線香とろうそくはそれでよかったのだが、祖母の上の照明はそのままこうこうと照っている。蛍光灯が。…とうてい、欄間で防げる光量ではない。
一旦はなんとか寝ることのできたわたしだったが、うっかりふと目覚めてしまった午前3時以降は、寝たんだか寝てないんだか自分でも判らない状態になってしまった。布団かぶっても明るいものは明るいんだよ。

そんなわけで寝ぼけ眼の朝。8時半になってやってきた斎場の人が、トーストを出してくれた。備え付けのコーヒーメーカーでコーヒーも入れて、ありがたくいただく。
布団も上げられ、身支度も済ませて、次のイベントを待つ。

お斎。おとき、というらしい。初めて聴いた(そんなんばっかり)。
ちらっと調べるとどうやら正式には火葬まで終わった後の食事のことらしいが、このときは午前中、葬儀の直前だった。なんか昼食を兼ねていたような気がする。しかも夕食相当の席まで設けられていたのだが、今考えると、葬儀終了後に初七日まで一気にやってしまったので、昼のが葬儀用で夕食が初七日用ということだったのだろうか。

まあともかく、再び仕出し弁当をいただく。
茶そばが入っている。そばなんて激しく久々に食べた。わたしは大好きなのに、家庭の事情で食べる機会をことごとく逸してきたそば。よもやこんなところで再会できるとは。
それは嬉しかったが、懐石料理に好き嫌いの激しいわたしのこと、全体の半分弱は残してしまった。

午後から葬儀。
始まる前にデジカメとインスタントカメラで、親族集合写真を撮ってもらう。後日確認した出来上がりはどっちもどっちだったが、デジカメの方が顔がよく判ると父は言った。

やはりというか、通夜よりは読経時間が長くなる。
親族席は3列。一番前が喪主の祖父、それから父と叔父。次列に T くんと息子の K くん、それにうちの母。その次列に T くんの奥さん(R さんとしよう)、N ちゃんと息子の S くん、そしてわたし。4人並んでるのは、N ちゃんとわたしの間に椅子を入れたから。
S くんは、4歳とは思えぬ忍耐力というか、足はぶらぶらしていたが終始静かにしていた。そして K くんは…途中、間違いなく寝ているなという瞬間があった。R さんに視線で合図すると、背中を軽くつついて、なんとか持ち直したようだった。
しかし、他人事ではなかった。前述の寝不足がたたって、わたし自身が結構限界すれすれだったのである。手をつねりながら耐えた。

祖父も父も T くんも、涙を拭いていた。酸素ボンベの手放せない祖父にかわって挨拶に立った父が涙をこらえるのを、観ていた母も目元を拭っていた。
この期に及んでも、なぜか涙のひとつぶもない自分が、もはや不思議ですらあった。確かにこれは祖母のお葬式なのに。出棺前、祖母の周囲に花を飾りながらも、これが見納めではないような感覚が、抜けずにいた。その飾る花を、斎場の人がぶちぶちと壮大な音をたてて四方からちぎっていたのが気になって仕方ないほどの、へんな余裕。

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