別れの曲 (4) 二度と戻らない時間

サブタイトルをつけた瞬間、ぐろーぶが脳内リピートを始めたのは仕様です。
てのはともかく、ようやく話が正味に入りはじめたよ。いつも前置きが長いと注意されることが多い人だったなぁ昔から。小倉編のときも異様に長かったよね。毎度すいません。

もくじ

ごあんない(毎回掲載しますよ)

このシリーズは、07年3月に mixi 生中継していた、祖母の葬儀に伴う北九州・八幡滞在の模様を、みくし日記の文と携帯写真を元に大幅加筆再構成したものです。

午後7時からの通夜は粛々と進行した。右半分の親族席はほぼ埋まり、左サイドには父の取引先とおぼしき男性が十数名ほど見えていた。

始まる前、父に案内されて先に会場に入り、頼まれて持ってきたデジカメで写真を数枚撮った。本当は実家にあるものが一番新しくて性能も格段に上なのだが、わたしを呼ぶ段階になってデジカメを使おうと思い出したようなので、古い型のもので勘弁してもらう。
祖母は花が好きだったからとにかく花で囲んでくれ、と父が斎場に依頼したためか、祭壇は色とりどりの花であふれかえっていた。
母方の親戚連名のものを除くと、父の勤め先や取引先が大半を占める花かご。そんな中、わたしが一銭も出した覚えのない「孫一同」が2かごもあって一瞬戸惑ったが、まぁその話は後でいいやということにしておいた。多分、かご数を稼ぐために名義を使ったのだろう。
ちなみに、その花代は未だに出していない。いいのかそれで。 T くんが出したのかなぁ。

と、そんな花いっぱいの祖母を眺めながら、焼香の煙にまかれる。
そう、その焼香だ。最初に説明があって初めて知ったことが。うちが浄土真宗なのは知っていたが、父方はその中でも大谷派という宗派だったのだ。で、この派における焼香は「つまむ→顔の前に持って行って拝む→焚く」ではなく、拝む動作なしで、つまんだのをいきなり焚く、しかもそれを2回するのが作法だという。
うわー知らなかったよー! 今までどの葬儀でも普通に拝んでやっちゃってたよー! …いつか母方の実家の宗派も確認しようと思った。

2時間枠が確保されていたので覚悟していたが、通夜の儀式自体はあっさりしたものだった。確か8時過ぎには終わっていたと思う。その後、控室に戻り、親族一同で食事(名称が何かあったが忘れた)。腹が減ったからといって揚げ物をほいほい食べていたら、後で壮大に胃もたれした、というのはおいといて。
本来それどころじゃないはずなのだろうが、いとこ達と再会できたことがとにかく嬉しかった。T くんと N ちゃんの兄妹は、理由あって一家離散の憂き目に遭い、それぞれ相当苦労したと、通夜の前に父から聴いていた。その2人が、それぞれに幸せな家庭を手に入れ、きっかけは不幸だったにせよ再会を果たしたことは、とても大きな意味があると思った。
それぞれの息子どうしが、あっという間に打ち解けて仲良くしているのも微笑ましかった。くまがもうちょっと大きかったらその輪に入れたのかもしれないが、一方で、T くんたちの経験を前にすると、わたしの抱えた実状など話せたものではないなと、ちょっと複雑な感情もよぎった。

ひとしきり食事と語らいが済むと、大半の親族は帰宅していった。
残ったのはうち3人と、祖父と叔父。どうやらもともとはこの全員で控室泊の予定だったようだが、父は祖父たちに、祖父宅へ帰って2人でゆっくり休むよう勧めた。結果そうなったのだが、これまた理由あって久しく語らう機会がなかった2人に、時間を作ってあげたいという、父の思惑だったようだ。

ということで、親子3人水入らずのできあがり。一晩、祖母を見守る。
風呂に入って着替え、布団にもぐって話す父の口からは、珍しく弱気な、後悔ともとれる言葉があふれた。
同居に踏み切るのがあと1ヶ月でも早ければ、夙川の桜を見せてあげられたかもしれない。早く呼び寄せていれば、転倒して腰骨折って入院するまで糖尿病が発見されなかったとか、なぜか突然急性心不全で亡くなるとか、そんなことにはならなかったのではないか。後者はもしかしたら医療的に何かあったのかもしれないが、医者を怒鳴りつけても祖母は帰らないから、と。

そんな話を聴いてもなお、わたしには何故か、悲しみみたいなものは起きてこなかった。何はともあれ80まで生きたんだし、此処数年は寝たきりの一歩手前で、祖母本人も祖父も皆大変だったんだから、もう「おつかれさま」ってことじゃ駄目なのかなぁ、と思ったのは、薄情なのだろうか。
あるいは、自分の父母の番が来ないと、そういうリアルな感情は持てないのかもしれない。そんな気がした。

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