隠遁の里は緑ざかり (2) 祈りの尼寺

作業がはかどるということは、それに比例して結構いい勢いで減るミシン糸。1本使い切ったんで補充しようと近くの手芸店を覗いてみたら、白いミシン糸の棚が見事にからっぽ。ありゃー。やっぱ調達力では都心有利やな。用事がある時に買い足そっと。
さて先月後半の大原散歩はここから本題。

車1台分くらいの道に並ぶ建物の脇で埋もれるように、ひっそりと開いた木の門扉。そこが寂光院の入口だった。

入ってすぐ右で拝観料を納め、そして昨今スタンダードとなりつつある手の消毒スプレー。係の人にはずいぶんと恐縮されたけど、不特定多数が出入りするスポットだからね。拝観再開したのも6月になってからのようだし。

本堂はちょっとした階段の上にあるようだ。木陰の中を進む。

陽光を受けて彩りを増す青もみじに、秋もさぞ壮観であろうと思いを馳せながら。

上りきったところで、門の向こうに本堂が見える。

ぼちぼち年季が入った様子の門に対し、思いのほか綺麗な本堂。その理由は、本堂内で係の人からの解説を受けて判明する。

江戸初期に建て直された先代のお堂が、20年前に不審火から焼失、5年後に再建されたのが現在の姿。ご本尊なども焼損、両脇の木像と合わせて新たに作ったという。どうりでピカピカなわけだ。
そしてその解説のおかげで、とっても大事なことに気づく。この寺こそ、平家滅亡の際に生き残った建礼門院さんが後半生を送った場所。さらに、地元から差し入れられた漬物に「しば漬け」と名付けたのが彼女といわれ、そんな彼女に仕えた女官・阿波内侍が大原女の元になったと伝わる。大原の肝心なところが、この小さな寺に凝縮されていた。

という背景をふまえ、本堂をあとにして小さな庭園をめぐる。

関西あるある「秀吉ゆかりの品」。焼ける前の本堂が豊臣家の再興によったことに由来する。

奥の切り株は姫小松と呼ばれ、火事を受けて枯れた後も祀られている。樹齢数百年、往時はなかなかの大木だったようだ。

我が子・安徳天皇や、実家の平家など、亡くなった一族の菩提を弔って過ごした建礼門院さん。この「諸行無常の鐘」は江戸中期の設置というから、平家の興亡にまつわる物語は当時も著名だったことだろう。

四方を緑に囲まれた空間で、当家以外の参拝者は1〜2組程度。市街地からの距離に時節柄も加わり、静けさと人の少なさはとても京都市内とは信じがたいほどだった。それがかえって、隠遁生活への想像を容易にさせる。

せっかくなので、隣接する施設にもごあいさつ。

正直に言うと、2人揃って知識不足から「高倉天皇皇后徳子」が誰かすぐにわからんかったのよ。つまり建礼門院さんの陵がこちらにありまして。皇族だから現在の管轄はもちろん宮内庁、奈良でよく見かけるいつもの様式。

こうして午前の予定を終了。バス停方面へ戻る。

土地柄や背景を知って初めて、すんなり目に入ってくる景色があることを実感。

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