別れの曲 (1) その時は突然に

さて。ここしばらくの話をどこから書くか少々迷ったんですが、ともかくこの話を先にアウトプットしないことには脳が動いてくれそうになかったので、時系列ひっくり返します。いくらなんでも正月の小倉編みたいな長さにはならないかと。
あ、本文行く前に、リアルタイムで励ましやらアドバイスやらくださったマイミクの皆様に感謝。とりあえず残された人間は元気にやってます。わたしの目とかが痛いのは単に自業自得。

もくじ

ごあんない(毎回掲載しますよ)

このシリーズは、07年3月に mixi 生中継していた、祖母の葬儀に伴う北九州・八幡滞在の模様を、みくし日記の文と携帯写真を元に大幅加筆再構成したものです。

東京にいる週末は、くまを預け、わたしひとりで出かけて土日を過ごす。その週末フリータイムという存在が、上京するための数少ない原動力となりつつあった、早春の土曜日。
その日も、わたしは横浜の家からだいぶ離れた場所にいた。さて、次はどこへ行こう。

携帯にメールが着いたのは、それを考えようとした矢先だった。
差出人は母。祖母の容態が悪いので、父が九州へ飛んだ。わたしもいつでも出られるよう準備しろ、というものだった。
二度目の危篤通知か。そう思った。ひと月ほど前にも同じように父が飛んで行き、だいぶやばいというので地元の親族ほとんど全員をかき集め、ひととおり祖母の寝顔を観て行った、ということがあった。それから緊急事態こそかろうじて脱したものの、本格的なリハビリを始めるには長い道程だ、という話だったけれど。

ほどなく、母からの電話。しかしいつでも出られるようにと言われても、その地点から羽田まで行くのも楽ではない状態。混乱の中でも、土曜中の移動が現実的に無理なのは判った。母にしても父が着くまでは現況が判らないので、とりあえず「いつでも」とは日曜以降ということで話がついた。
じゃ、今日は多少移動しても大丈夫。そう判断して次の目的地を定め、移動を始めて、1時間も経たずに、再び電話が鳴った。

「おばあちゃん、亡くなったって」

えっ? としか言葉が出なかった。
最初の危篤の頃から、ある程度覚悟はできていた。でも、やけに急だな。いやしかし、えーと、そうか、来るべき時が来てしまったことには間違いないらしい。
まず訪れたのは、そんな一種の諦めに近いような感情だった。

その夜、母からの電話でこれからの日程を聞かされた。日曜が通夜で月曜が葬儀。斎場の名前や所在地も合わせてメールで詳細をもらう。
わたしは最低でも葬儀は必ず、できれば通夜から来てほしいと、両親は言った。とすると最大の問題は、くまをどうするかということ。斎場で離乳食というのも現実味が薄いし、だいいち孫とはいえ遺族だから式典的にはホスト側、その立場でくまにつきっきりというのも厳しいものがある。そもそもくま本人が、長時間じっとしている式典には激しく不向き。ということで、くまを東京側でなんとか預けてわたしひとりで来い、と。

翌朝、くまを任せる目処が立った。わたしはすぐに鞄の荷物を詰め替え、喪服一式と帰路の普段着だけを持って、羽田へ急いだ。
とにかく一番最初に出る便で。通夜にきちんと間に合う、30分後に飛ぶスターフライヤーを確保した。そして昼食に買ったベーグルを一口食べただけで袋へつっこみ、正月と全く同じ1番搭乗口へ走る。

不思議なくらい、悲しみの感情が浮かばなかった。
展開が急すぎたこともある。が、闘病生活が長引かずに終わったことは、祖母本人にも、祖父や両親にも、ある面では楽だったのではないか、という、ちょっと冷たいようだがそういう考え方が、わたしの中にあったことも、おそらくは事実。
そして、くまの顔を見せるという目的を正月に達成していたことも、わたし個人的なあとくされのなさの、大きな理由だったことは確かだ。

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