港町は浪漫の夢を見るか (1) 航海に繋がる道
4 Jul 2016
農家化した実家から続々と野菜が到着。先日はじゃがいも、今日はねぎと水なす。いずれも結構な量あるんで、今週はもう野菜買わなくていいわってレベル。毎日レシピを変えつつ、新鮮なうちにどんどんいただくとしよう。
さて今回は、この週末にちょっと出かけてきた話。結果的にほぼ非鉄。
このようなところにやってきた。
現在の建物名は「海外移住と文化の交流センター」という。多少の装飾はありつつも、全体の印象としてはえらく公的なイメージ。それもそのはず、元をたどれば国が建てた施設。
そしてその用途については、入口横の碑が大きなヒントというかほぼ正解を教えてくれる。
昭和初期、建築時の名前は「国立移民収容所」。海外から来た人用ではなく、日本から海外を目指すための出口だった。行先はブラジルを中心とした南米各国。乗船前に1週間ほど滞在し、検診やら予防注射やら準備するのが目的。
そんな移民に関する資料が、館内の「移住ミュージアム」で常設展示されている。無料だったんで覗いてみた。
たった今歩いてきた道は、この建物から移民船に乗りにいく道そのものだった。付近の展示で、黎明期には現・元町の位置が三ノ宮駅だったという豆知識もついでに知る。
説明をよく読まずとも、国策移住と一発でわかる独特なテイストのポスター。
船の長旅に慣れるため、船っぽく造ったという廊下。荷物や道具の実物展示に加え、寝泊まりした部屋の再現も。
いまどきの人でははみ出しかねない 170cm のベッドがびっしり並ぶ。それもまた船の狭さに慣れるため。
と、順調にさくさく見て回っていたところ、係員のおっちゃんがやってきて、尋ねてないことから説明パネルに書いてないことまでどっさり解説してくれた。情報量が多すぎてほとんど覚えてない。すいません。思い出せたことだけ書いとこ。
- 国策で渡航費全額補助になるより前は、移住は金持ちのやることだった
- 移住した100万人(1階展示:県別転出者数)のうち、南米に住んだのは約75万(2階展示:行先国別移住者数)、数字が合わないのは満州の分(当時は「国内」)
- 敗戦を知ってた人と信じない人(後者が9割)で日系コミュが数年間大揉め
- ブラジルは赤土が飛ぶから洗濯物が外に干せず、部屋干しでくっついた虫をアイロンで焼くしかない
…ふぅ。ここ観に来る人は時間に余裕もって行くべし。我々は超ひまだったんでいいけど。
当時のセンスが光る階段を上り、本来の目的を果たしに4階へ。
資料展示あり、国際交流ありの当館。さらにアート活動支援の一面もあり、そこで開かれている香港のトラム写真展を観るために来たのである。ほぼすべて筲箕湾で側面を標本採集した写真のみという潔さ。
撮影された方にお話を聴くこともでき、バリエーション豊富なラッピングに魅せられたが故にガンガン通った、という明確な動機もわかってすっきり。我々が香港経験者と見るや、これまた撮影エピソードをたっぷり語ってくれた。どうも「熱意あふれる人」に会いやすい日だったようで。
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