OtiS IV

つーかーれーたー。えぇ、横浜来たのは以前から決まっていたお客をもてなすためですよ。物理的に仕事が多かったのもあるけど、やっぱ演技は疲れるわ。
それでも更新はするのさ。だいぶかかったけど、これでとりあえず高校編は終了。次は街の中に潜んでいる思い出がひっぱりだされるわけで。ただ、千葉と違って深夜しかノートが使えんので少し滞るかも。がんばる。

ごあんない(毎回掲載しますよ)

このシリーズは、mixi 先行公開(というか生中継)していた06年大晦日〜07年正月の小倉滞在の模様を、みくし日記の文と携帯写真を下地に、まともなデジカメ写真を追加して再構成したものです。


愛宕神社。名前は立派だが、とても小さな神社。
それでも、我々はとてもお世話になった。公演をやるときは、本番初日(1公演しかない方が圧倒的に多かったが、文化祭などは2公演あった)の朝、必ず皆で参拝し、舞台の成功を祈ったものだった。多分そういうご利益のところじゃないと思うけど、高校の裏にあるからきっと在校生の味方だろうということで。


手前の石段はちょっとだけ綺麗に改築されているようだったが、本殿は当時のままの年季の入った姿をとどめていた。財布から小銭を取り出し、からっぽの賽銭箱に納め、細い綱を揺らして鈴を鳴らす。
お久しぶりです。在校中はお世話になりました。ご覧の通り今もなんとかやってます。こちらくまです、初めまして。ご挨拶に来れてよかったです。
概ねそんなようなことを、手を合わせた胸の奥で愛宕の神様に語りかけた。
これが今年の初詣。


どうやら、改築工事はまだ途上のようだ。積まれたブロックで気づいた。
とまあ、目的を達したところで、覚えのある方向へ進む。そうだそうだ、高校から来るときはこちらの道から来たんだった。つい楽な方の坂を普通に上ってしまったので、神社まで遠回りしてしまったのだ。


帰りくらいは当時の道を使うことにした。


この道のりは細い。此処はどこの細道じゃ、ってくらい細い。そして神社へ向かう最初の入口であるところの階段も、これまた極めて細い。
そんな細道を抜けて、わたしはまた高校の東側に戻ってきた。来た道を忠実に辿り、再びバス通りに出たところで、ふと足が止まった。
西側も観ておきたいな。


バス停を過ぎて少し西へ進むと、板櫃川に突き当たる。
その向こうには新幹線の高架。ちょっと博多寄りに進めば地下に潜る、そのすぐ手前のところだ。潜ったところは丘になっていて、そこで彼氏と星観たっけ。

彼の家はこの写真で言うと右奥へ5分程行ったところ、高架より向こう側。
倉高を選んだもうひとつの理由はそれだったことを、今思い出した。なんとかして近づきたいという、実に単純な動機。そして実際、つきあうようになってから、この距離の短さは本当に有意義なものだった。学校帰りに寄れる。休日でも定期券で来れる。
…一生懸命だったなぁ。結局、ほかならぬわたしの翻意で幕を閉じた恋だとしても。
彼は紆余曲折ありつつも、大阪で幸せな家庭を築いたそうだ。昔教えてくれたサイトを観る限りはうまくやっているみたいで何より。


そして板櫃川沿いには、もうひとつの忘れえぬ瞬間が眠っている。
この道は1年のとき、真冬の早朝に薄すぎる体操着とブルマでマラソンさせられた嫌な道だが、言いたいのはそこじゃなくて。

川の対岸のどこかに、大学時代に長野が友達と住んでいたアパートがあった。一度だけ訪れた。3年間、いやそれ以上経つ間に、知らぬ間に醸成されていた心の内を伝えた、最後の場所。
強い意志で勝ち取った学問の場を飛び出すことはできず。やっとできた彼女を蔑ろにすることもできず。もはや後戻りは許されなかった。

あまりにも成長していない自分に愕然とする。
しかし、わたしは確かにいろいろなものをもらったのだ。彼らの存在が、義務教育期間でぼろぼろになったわたしを、人並みのところまで引き上げてくれた。
位置づけは変わろうとも、決して忘れない。あの2人のこと。
共に過ごした日々のすべてに。ありがとう。


神社を出た頃、母からメールが入っていた。祖母は落ち着いたので午後に合流しようと。束の間のひとり旅はもうすぐおしまい。
じきにお昼だ。街へ戻って食事にしよう。
いつも帰りに使ったバス停で、バスを待つ。この風景もほとんど変わらない。椅子に座って、ちゃりのままの長野と交わした会話もまだ覚えている。


バス停の前に立つビル。その1階、一番端にあった、チェーンじゃない方のうどん屋「河口屋」はなくなっていた。名物だった、どんぶり1杯のかき氷にももう会えない。
時間は確かに流れてる。わたしもそろそろ前に進まないとね。

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