九州の受験生が関西でカルチャーショックを受けた昔の話。

連休の押し入れ整理中、ふと思い出したのが「人生初の関西上陸記をノートに残した」記憶。後輩へのみやげ話として書いたと思われるが、何を書いたかはうろ覚えだった。今日探したところ、すんなり発掘成功。しかも開けてびっくり、執筆日がン年前のまさに今日明日。これもなにかの巡り合わせであろう、せっかくなので記念に置いておく。

もくじ

本来の目的

実際のノートは、見開き単位で「左面:移動履歴と出来事」「右面:図解と余談」を6セットという構成。もはやちょっとした薄い本である。とても全文公開できないようなテンションで綴られているため、とりあえず一番無難そうな図解を代表で。

海岸線と路線図の縮尺が合ってないのはさておき。人によっては、この図だけで「年」と「目的」が思い当たるかと。住吉〜灘が不通の JR 神戸線。御影以東(正確には西宮北口まで)と王子公園〜三宮が不通の阪急神戸線。そしてなぜか2つ登場する大学名。

これは1995年2月、特例による大学二次試験の記録でもある。

電車の不通が示す通り、阪神淡路大震災からわずか1ヶ月後。プロジェクト X でも紹介された六甲道復旧工事は道半ば。寸断された鉄道ルートを、ところどころ代替バスが結ぶ。といっても限界はあり、他社乗り換えとなる住吉〜御影はもっぱら徒歩。
加えてキャンパスが避難所となっていたこともあり、とても学内では試験を開催できない状況。そのような経緯から、本来なら全国一斉である二次試験前期日程の実施日を、わが第一志望大学のみ翌日に順延、近隣県の国立大学で試験終了後の会場を拝借することとなった。
当時の居住地・小倉から新幹線で1本の岡山も利用可能だったが、当初から困難が見込まれた住居探しを先行するため大阪を選択。わたしは石橋で試験を受け、同行した父は三宮の不動産屋で物件を仮押さえ。無事合格の末、神戸市内で半年暮らしたのは、昔書いた通り。

震災の現場

試験前日。受験会場としては使えないものの、通うかもしれないキャンパスを下見に JR 乗車。「住吉ゆき」の新快速を降りて、御影までの徒歩ルート(約20分)を実際に歩いた。

とにかく放送はそればっか。
「住吉〜灘間は止まってます」「代替バスが」
川を渡って芦屋に入ったとたん崩壊物激増。
割れた歩道のはしっこ、つぶれた家、壊れた寺、貼り紙貼り紙。車混む。人ずらずら歩く。みんなで御影。

下見を終え梅田へ帰還後、震災募金のためだけに FM 802 本社へ乗り込んだのは当初からの計画でもあったが、実地のインパクトに背中を押された面もある。当時の自分にとって 1500 円はそこそこの額だったはず。

多すぎる余談

極めて真面目な旅にもかかわらず、まったく関係のない事象が紙面の大半を占めていた。

無駄に詳しい交通機関ログ

博多経由の飛行機や新幹線どころか、各地の電車移動に自宅からのモノレールまで分単位で残る乗車記録。そして関西では初乗車の列車・路線と乗車区間も。

  • JR:はるか(関空〜新大阪)、神戸線(新大阪〜住吉)
  • 阪急:宝塚線(梅田〜石橋)、神戸線(御影〜六甲)
  • 大阪市営(当時):谷町線(東梅田〜南森町)

本当に当時鉄ヲタではなかったのか我ながら疑わしい。

田舎者まるだし感

西鉄バス王国小倉に電車の付け入る隙はほぼなく、日常から遠いところにあった鉄道インフラ。JR 九州の車両も駅も、さほど近代化されていなかったことは確か。よって、JR 西日本管内は何もかもが目新しかった様子。

はるか。行先、号車、すべて電光。ホームも電光。隣にいる快速でさえ電光。とにかく電光。

電光掲示板に飢えすぎ問題。
また、受験生プランを利用した宿泊先が大阪ターミナルホテル(現グランヴィア大阪)だったことから、梅田ダンジョンも初体験。最終的には外出した東梅田から地下街のみ経由での帰投に成功するも、最初に大阪駅入りした際はひどいもんだった。

JR 大阪。とにかくホテルを発見するのに苦労する。
(笑うな!大阪は広いんだよ!)

エントランス発見に15分要している。いったいどの出口から改札出たんですかね。

まさかの石橋デビュー

試験前日には実際の受験会場も下見していた。その際、現在も営業する店で昼食をとっていたことが判明。

偶然見つけたうどん屋「入船」。
親子とじうどん¥520。つるっとした薄っぺらい麺に薄味のつゆ。これはうまかった。

20年後に「安くて便利な飲み屋街」として使うなどとは露知らず。あとその店、そばの方が有名だった。

関西人の洗礼

そして受験当日。前説にて、試験監督のおっちゃんが小ネタを多数繰り出してきた。一説によると「受験生をリラックスさせる方便」とも言われるが、他地方の大学でもあるのだろうか。

  • 老眼だからといって受験生に時計合わせを手伝わせる
  • 腕時計の秒針が見当たらないと別の試験監督を呼ぶ→細くて見えなかっただけ
  • 机に貼られた受験番号の紙を「記念に持って帰る」よう指示

なお、そのおっちゃんは我が学部の教授であったことが入学後に判明。彼の必修授業はもっと真面目だったけど、IT 系の知識を得るきっかけのひとつでもあった。いろんな意味でお世話になりました。と、ちょうど25年越しのお礼。

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