別れの曲 (7) まつりの後

さーて本番が終わったら途端にぐだぐだな話になりますよと。何かいろんな意味で、孫の中ではわたしが一番駄目なような気がしてきたわけだが。あの、生きてる者としてはもうちょっと人生しゃんとした方が良いんかな。がんばろ。

ごあんない(毎回掲載しますよ)

このシリーズは、07年3月に mixi 生中継していた、祖母の葬儀に伴う北九州・八幡滞在の模様を、みくし日記の文と携帯写真を元に大幅加筆再構成したものです。

夕食…と言ってはいけないのだろうが、食事の席も淡々と和やかに過ぎた。さすがに父と祖父と叔父は憔悴感が拭えなかったものの、T くんはだいぶ落ち着いて、K くんの食欲旺盛っぷりに笑みを見せるくらいになっていた。
わたしはというと、相変わらず N ちゃんや R さんと共にほのぼのした食卓。

祖母は R さんに相当世話になったと聴いている。跡継ぎたる T くんの奥さんだからというのもあったろうけど、なんと彼女はヘルパー資格を持っていて、実際普段はその仕事をやっているという。ベッドから上手に起こす方法なんて彼女に習わなければ判らなかった、と父が感心していた。
しかも T くんが実は難病を抱えているので、R さんの稼ぎは生活費において結構な意味を持つともいう。さらに子供が K くんともう1人。本当にタフな人だ。T くんのパートナーがこんな頼れる人で心底よかったと思った。

T くんもそうだけど、N ちゃんも一家離散後に大変苦労したそうで、直接本人からは何も聴いてないが、思春期には荒れた時期もあったらしい。でも今こうして、S くんともう1人の子供を立派に育ててる。それは S くんの利発さが何より語っていた。

他人と比較して自分の人生をどうこうする気はないけれど。
幸せであってほしい人が、それなりに幸せというのは、嬉しいものだね。

やがて、皆で帰宅の時間。
車を運転する人が駐車場まで取りに行く間、わたしは S くんや K くんと待っていた。
火葬場でもらったお菓子をその場で分ける暇がなく、1袋に詰めて持ってきてしまったのを、2つに分けてそれぞれが持ってた。その袋をぐるぐる回して、蓋ができたと得意げな S くん。真似する K くん。
そのうち、S くんが袋からお菓子をひとつ出してわたしにくれた。すると K くんもくれた。さらに2つ3つと。さっき袋落としたから粉々やんけー、と S くんに苦情を言ったら笑っていた。

そう、何故だか、斎場にいる間ずっと、わたしは関西弁で喋り続けていた。
祖母と一緒に関西で暮らすはずだったから? 今の「自宅」が関西にあると思ってるせい? 理由は今も判らないまま。

車が来た。T くんと N ちゃんちがそれぞれの車で、うちはタクシーで、祖父宅に向かう。祖母を連れて帰るため。
家に着くと、父たちが場所を作り始めた。四十九日までの祭壇がここに来るのだという。わたしは既にあった仏具を洗ってみたり、ちょこちょこ手伝いをしたり。
その祭壇は斎場の人が組みに来るはずだったが、これが異様に遅い。場所ができて、待てど暮らせどやってこない。父が慇懃ながら最高に回りくどい催促電話をして(営業畑育ちの才能かも)間もなく、彼らはやってきた。
どんどん資材が運び込まれ、かたっぱしから組み立てられる。さらに大量の花。

…運び込むのはいいとして、その間ずっと扉が半開き。外からは冷えきった北風。これには心底参った。しかもそんなに広い家ではないところに大人数入っているので、通路を空けようとすると座る場所もない。
もともと朝からつらかった腰の具合が、此処に来て一気に悪化してきた。よりによって月のうちで最もつらいほぼ唯一の日が、この日に当たるとは…。

だいぶかかって祭壇の出来上がり。もう溢れんばかりの花で囲まれた空間はとても綺麗だったけど、ゆったり眺める余裕がなかった。
皆で順番に拝んで、お茶をいただいたら、もうすぐにでも宿へ向かいたいくらいだった。が、当然ながら父たちは今後の話や思い出話に花咲き放題。それを止める程の図々しさを持てず、わたしはようやく座るスペースが出来た椅子で脱力していた。
T くんたちと N ちゃんたちを見送ったところで、やっとのことで母に打ち明けた。
いや、このときは本当に、近年にない限界を観た気がした。事の顛末を携帯で打つ余力があったのが不思議な程だ。

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