OtiS IV

待ち続けた日がやっと訪れた。あのときから。チケが届いた日、関西公演に行こうと決めた日、いやもっと前。「あの日」からずっと待っていた。
「音楽座ミュージカル」としての感想は、きっと本来のファンの方のほうがずっと的確に書けることだろう。スタンディングオベーションに立ち上がるタイミングも判らなかった「異色の客」が、観てきましたよ。なぜか異様なまでに長文。

本編感想

遠く九州からでは初演は観に行けず。だから初演のイメージというと、WOWOW 特番(92年の成人式)でゲストにいらした土居さん。立ち居振る舞いに青年の凛々しさを感じたように記憶している。
今回の高野さん(旧字体が出なくてすみません)、まるで「少年」のようだった。いい意味で。奔放で無邪気で跳ねっ返りで、夢中になったら止まらない。あんなふうな天才が身近にいたら、そら周囲は良くも悪くも振り回されるわ。でもついてっちゃう。わかる。

入場してすぐもらった真っ白なパンフで「精霊たち」を強調していた理由は、観て判った。モーツァルトの曲が流れるとき、必ずそこに精霊がいる。ピアノを囲んで飛び回り、空間いっぱいに広がり、表情豊かに舞い踊る。
時にはオペラの登場人物でもあったけれど、彼らはモーツァルトがさらさらと超高速で生み出す「音符」そのもののように見えた。と気づいた帰宅後、「白いキイノート」というフレーズが瞬時に浮かんだのは言うまでもない。あ、繋がった、て思った。

ハッピーエンドとは言い難い結末。それでも、いろんな人の心に、音楽となって生き続ける、そんな生命のあり方は、ある意味ではとてもしあわせだね。

芸文デビュー

超地元のくせに初訪問。駅からデッキでフラットに直結という、あまりの行きやすさにプチ感動。内装がシンプル綺麗でさらに感心。いいホールだ。
今回の会場は中ホール。定員はそんなに多くないけど、だからこそ大変観やすい。わたしは2階前寄りで若干セットの上部が見切れたりはしたものの、演劇系で全体俯瞰できるのはむしろ歓迎。椅子はぱっと見が直角に近くて驚いたが、逆に背もたれ下部がちょうど腰を支えてくれて意外と快適。
見切れといえば上手奥にブースがあって、バイオリンさんの姿はよく見えていたのだが、ピアノさんもその隣で弾いてたと終演後に気づいた。生で弾いてるのは判っててんけど。てか、その2本だけ生演奏ってのもおもろいな。

思い出と思い入れ

さて。うち的にはここからが本題…て前置き長っ!

1991年。モーツァルトと同じ日が、生まれ変わりの「彼」の命日になったらどうしよう、と、中二病まるだしの心配をしていた当時の自分に、教えてあげたい。
17年と少し後、あんたは別の意味でモーツァルトと彼を重ねて観てますよと。

「楽曲提供者のトラブルが(中略)あわや公演中止も覚悟」。
パンフの末尾。代表さんの言葉が突き刺さった。
ごめんなさい。
この公演を観にきたのは、勿論初演を観れなかったから再演こそはというのもあったけど、もうひとつ、「激しい雨」をしのぐ1本の傘になれたら、という想いが強かったのも確かだ。わたしたちが謝っても仕方のないことなのだけど、何か行動にしたかった。

まもなく開演という時。ベルのかわりに会場に響いた旋律。あ、デイドリームの A メロ。もうそれだけで泣きそうだった。
幕開けの重厚な「テーマ」。疾走する「House」。戸惑いとときめきの「Love」。やがて死に至る者の「Epitaph」。潤む目の奥で思い出すのはすべて、サントラでの曲名。わたしが一番急激に信者化した時代の作品だもんな。骨の髄から染み出すメロディと、リアルタイムで耳から流れ込む音が渾然一体となる。
その音も時にタイムカプセルと化した。最たるものが、シカネーダーが魔笛制作を持ちかける “NEW WAVE”。一瞬、EXPO ツアーの極彩色のステージが瞼の裏に広がった。あれは間違いなく「1991年の小室哲哉の空気」だった。
そして、4ヶ月前にパソコンの前で号泣したラストテーマが、時計を現代に戻す。

思いのままに溢れるそばから曲を紡ぎ出していった時代。
自分の音楽が「流行」に取り残され、打ちひしがれた時代。
それでも「また僕の時代が来る!」と信じて進もうとした時代。
2009年に振り返ったモーツァルトの生涯は、1991年に感じたより遥かに圧倒的に、まるで彼そのもののようだった。
命を削って産み落とされた「魔笛」のように、もう一花が咲く日は来るのだろうか。彼の周りに再び、白いキイノートの精霊が舞う日を、我々は待ち続ける。今はただ静かに。

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